2015年11月29日日曜日

夏目漱石「吾輩は猫である」を借りてます。その2(前回のつづき)



我が家の裏に十坪ばかりの茶園がある。散歩していたら、大きな猫がいびきをかいて寝ている。吾輩が立っていると、大きい猫はまん丸い目を開いた・・

『しかし挨拶をしないと、けんのんだと思ったから「吾輩は猫である。名前はまだない」となるべく平気を装って冷然と答えた』・・

『彼は軽蔑せる調子で「なに、猫だ? 猫が聞いてあきれらあ。ぜんてえどこに住んでいるんだ」ずいぶん傍若無人だ。「吾輩はここの教師の家にいるのだ」「どうせそんなことだろうと思った。いやにやせてるじゃあねえか」』

吾輩と大きな黒の会話がつづくのだが、ネズミを捕った数を自慢する話や、イタチに屁をかまされた話をきいていたら吾輩は気分が悪くなり、家に帰った。・・この時から吾輩はネズミを捕るまいと決心した・・

 

「いったい、いつまでブログに登場させる気なのかね」猫は不機嫌そうだ。

「そういわずにもう少しここで付き合ってくれよ」私は猫の頭をなでながら言った。

「しょうもない。お前の虚栄心に協力するのはまっぴらだよ」猫は前足を顔より前にだし、お尻を大きく上げて背伸びした。それから歩き始めた。

この前、車屋の黒に出会ったら足に傷を負い、毛の色も悪く、やせていた。魚屋の天秤棒で殴られたようだ。

『ちょっと読者に断わっておきたいが、元来人間がなんぞというと猫々と、こともなげに軽侮の口調をもって吾輩を評価する癖があるははなはだよくない。人間の糟から牛と馬ができて、牛と馬の糞から猫が製造されたごとく考えるのは、自分の無知に心づかんで高慢な顔をする教師などにはありがちのことでもあろうが、はたから見てあまりみっともいいものじゃない』・・

人間の目はただ向上とかなんとか言って、空ばかり見ているから、それぞれの物事には違いがあることすら、わからないのは気の毒なことだ・・

 

「また、なんたらブログに吾輩を登場さすのか? おまえはしつこいよ。いったいこのなんたらブログってのはなんなんだい。日露戦争のころにはなかったぞ」彼は機嫌が悪い。

「でも、電話はあったでしょう」私も訳の分からないことを言った。

「あったが使ったことはない」猫は投げやりな返事をした。

主人が機嫌の悪い時に、ひざの上に乗ると大変な目に合わされる。書斎の縁側へ上がって障子の隙間から見た。主人は日記帳を出して次のように書きつけた。

『寒月と、根津、上野、池の端、神田へんを散歩。池の端の待合の前で芸者が裾模様の春着を着て羽根をついていた。衣装は美しいが顔はすこぶるまずい。なんとなくうちの猫に似ていた。

何も顔のまずい例に特に吾輩を出さなくてもよいものだ。吾輩だって喜多床へ行って顔さえ剃ってもらやあ、そんなに人間と違ったところはありゃしない。人間はこううぬぼれているから困る』

また後日、つづきを書くことにしよう。

猫の観察力「吾輩は猫である」から


ネットにたびたび登場する猫たちの気持ちはどうなのかと思い、有名な猫に聞いてみることにしました。

 

夏目漱石の「吾輩は猫である」に登場する猫です。

小説の猫が飼われるところから・・『主人は鼻の下の黒い毛をひねりながら吾輩の顔をしばらくながめておったやがてそんなら内へおいてやれと言ったまま奥へはいってしまった。

主人はあまり口をきかぬ人とみえた。下女はくやしそうに吾輩を台所へほうり出した。かくして吾輩はついにこの家を自分の住み家ときめることにしたのである』・・このあたりからの猫の考え方や観察力を参考にしようと思います。

 

漱石さんは最後には私を死なせてしまったけど、小説の区切りをつけるためには仕方ないんだろうね。

でも、ビールを飲んでカメに落ちて溺れ死ぬなんて、ひどすぎるよね。せめて、布団の上で息を引き取るぐらいにしてほしかったなあ。まあ、吾輩のことを思ってくれる者もいるからヨシとしよう。

 

『吾輩は人間と同居して彼らを観察すればするほど、彼らはわがままなものだと断言せざるをえないようになった。ことに吾輩が時々同衾する子供のごときに至っては言語道断である』

そりゃ、逆さにされたり、頭に袋をかぶされたり、ほうり出されたりすれば頭にくるよね。

 

ある日、白君は子猫が4匹生まれたのに、書生に捨てられてしまった。『それ故、人間を勦滅しなければならない』などと言っている。

 

『白君は軍人の家におり三毛君は代言の主人をもっている、吾輩は教師の家に住んでいるだけ、こんなことに関すると両君よりもむしろ楽天である。ただその日その日がどうにかこうにか送られればよい。いくら人間だって、そういつまでも栄えることもあるまい。まあ気を長く猫の時節を待つがよかろう』

『・・しかし車屋の黒は、体が大きいだけで無知なくせに・・そう言えば、あいつはイタチに屁をかまされたと言っていたな』

 

猫君もいろいろ考えて生活しているんだなぁ。

2015年11月28日土曜日

トウガラシの苗を植えてみました。


トウガラシを野菜の傍に植えておくと、害虫を避ける効果があるそうです。トマトの傍に苗を1本だけ植えておきました。

赤くなったトウガラシを噛んでみると、痛くなるほどの辛味です。料理に使うとしても、マーボ豆腐、キンピラゴボウ、ウドン、キムチぐらいしか思いつきません。どんな料理に使うといいのかな。

ことわざ・名言について


「ことわざ」や「名言」はその状況を経験しないと、面白みがないですね。

人の行動は、個人の考えによるものが主だから、ことわざや名言は反省の材料になっても、行動の役には立たないのでしょうか。また、ことわざには全く反対の意味に使われているものが多数あります。

矛盾することわざをみてみると・・

「女房と畳は新しいほどよい」⇔「女房と鍋釜は古いほどよい」

「大は小をかねる」⇔「杓子は耳かきにならぬ」

「鶏口となるも牛後となるなかれ」⇔「イワシの頭せんよりタイの尾につけ」etc.

ヴォルテールの名言を二つ・・、

「途方もない大きなプライドを、とんでもなくケチな人間がもっている」

「私は君の意見に反対だ。しかし、君がそれをいう権利は生命をかけて守ってみせる」
諺を役立ててる人はどういうふうに利用されているんでしょうかね。